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日々の備忘録程度にのんびりやっていけたらなと思ってます。

「ボヘミアン・ラプソディ」の余韻にノリきれない

 「酒の席で政治、宗教、野球の話題を避けろ」と誰かが言う。なかなか無難なアドバイスだが、ごく個人的に期間限定で上記3つの仲間入りを果たしつつある話題がある。
 そう、「ボヘミアン・ラプソディ」である。

アカデミー賞授賞式も終わり、あの年末年始に渦巻いていたような熱狂も鳴りを潜めた。
ちょうどその頃出会って、せっかく意気投合できたのにこの映画を巡って軽く喧嘩してしまったあの人からはもはやLINEすら帰ってこない。
何を言ったところで誰も興味はないだろうが、ねちねちとどうでもいいことを意気地もなくここに書き留めておきたい。
今から書く文章は、あくまで「俺は悪くない」というスタンスを取り続け、誰か共感してくれという拙い希望まで添えた独身男性の情けない叫びなのだ。


 言わずと知れたイギリスの伝説的バンドの1つ、クイーンの遍歴をボーカルのフレディ・マーキュリーを中心に辿ったこの映画。詳しい説明は割愛するが、次々と押し寄せる名曲やラストのライブシーンが観客を圧巻し、鑑賞後の余韻は多くの観客にとって劇場を後にした数日後にも残っていたように思う。
 というのも、居酒屋に行くとまあまあの頻度でクイーンの歌が合唱されてたり、映画について熱く話す声が聞こえてくるのだ。過去3回の酒の席を振り返ると、酔っ払った深夜3時すぎに「we will rock you」のアレを繰り返しながら野毛の街を闊歩する場面があったし、久しぶりに大学の友達に会ったら突然「somebody to love」を歌い始めた。真顔で単調に歌い始めるからマジで動揺してしまった。返事に困ってたら、若干後ろの別席から「ママ〜」と呼応する声が聞こえてきた。昨日も繁華街を歩いてたら「ボヘミアン・ラプソディだよお前!」と陽気な声が聞こえてきた。

ノリきれない。
性格的な問題だと言われたらそれもあるが、なぜ乗り切れないかを正直に申し上げるならば、高校生の頃クラスの片隅で1人QUEENを聴いていたからだ。
きっかけは実に高校生らしいもので、ジョジョの影響だ。
iPod mini同人音楽を聴きながらガラケー2ちゃんねるまとめを読み、卑屈に笑っていた高校1年の僕は、ネットでかき集めた面白い漫画情報に突き動かされるようになんだか通っぽい漫画を読んでいた。「この漫画がすごい」で取り上げられていた「アイアムアヒーロー」、浅野いにおの短編集、ヘルシングをきっかけにヤングキングアワーズの存在を知ったのもこの頃だった。
どこにでもいる背伸びしたがりなクソサブカル気取り高校生。ジョジョにたどり着くのも必然だった。
物語にスタンドが登場し、元ネタの多くが洋楽から来ていることを知れば当たり前のようにCDを借りだす。両親が洋楽好きで、家にはいわゆる名盤がそれなりに積んであった。ようやく両親の趣味と歩調が合って家が宝箱に見えてきた。
そんな環境だからレッドツェッペリンビートルズピンクフロイド辺りはすぐ手に入った。そしてクイーンも。
その昔はドラマ「プライド」も見ていたので、ある程度の曲は知っていたが、映画のタイトルにもなった「Bohemian Rhapsody」はこの時初めて聞いた。
序盤のピアノ、懺悔するような歌い出し、ガリレオのコーラスで追い討ちをかけられ、激しい曲調に変わるも、最後はピアノで切なくしめやかに曲が終わっていく。1つの物語のような曲に影を潜めていた中二病が唸りだした。そこからは狂ったように聞いた。確かレッドツェッペリンの「天国への階段」と繰り返し聴いていたんじゃないだろうか。
カラオケに行く機会があれば下手な英語で「ママ〜」とかのたまわっていた。しかも部活仲間と行くカラオケだ。突っ込むとややこしくなると思われていたのか、良くも悪くも反応はなかった。思い返せば申し訳ない。
その時は特段反応は求めてなかった。それは確かだが、深層心理では誰かに認めて欲しかったのかもしれない。だからカラオケでわざわざ歌ったのかもしれない。それでも大した反応はなかった。それでもいいと、無意識ながらと自分に言い聞かせながら細々とクイーンを聴き続けた。そんな高校時代だった。

翻ってこの現在。今の世の中。クイーン再燃真っ盛りだ。昔から好きだろうが今好きになったんだろうが関係ない。クイーンを歌えばどこからともなくレスポンスが返ってくる。
なんだなんだこれは。僕の鬱屈とした高校時代はなんだったんだ。
噛み砕けば「ボヘミアン・ラプソディ」に対する僕の反発はこんなしょうもない理由なんだと思う。くだらない。しょうもない建前はさっさと置いて今こそママ〜と歌えばいいではないか。
そんな器用に生きていけるならブログなんて書いていないのだ。


「インディーズバンドがメジャーに行っちゃった感じ?」
クイーン再燃に対する謎の怨念について、ちょっと愚痴ったらそう問われた。
違う。そんなにありきたりじゃないし、もっと下らなくて愚かな理由だ。きっとわかってもらえないだろう。
でも本当はわかってほしいし、認めてもらいたい。
自分の中にある、認めざるを得ない幼稚なエゴだ。
本来人様にさらけ出すものではないが、あえてこの文章をブログに書き殴り成仏させてみようと思った。ただ土に埋めてみるような行為ではない。むしろメッセージボトルを海に流すような心境だ。目に見える反応がくれば嬉しいが、そこまでは望むまい。
それでもインターネットの海を泳いだ果てに、誰かの感情に爪痕が残っていくことを密かに願う。