scrap book

日々の備忘録程度にのんびりやっていけたらなと思ってます。

距離感と時代とポップと

 世の中随分変わった。
 最後にしっかりと更新したのは、令和を迎えてまだ2ヶ月だったか。京都アニメーションスタジオで発生した放火殺人事件が発生した時期だ。あの頃も再興に向けた募金が行われていて、僕も寄付をした。そして2020年、また僕はエンターテインメントに寄付している。というか、寄付せざるを得ない気持ちになるような未曾有の出来事が世界を覆った。

 コロナ禍。
 ほんの3ヶ月前までは海外で発生した未知のウイルスという程度だった。かつて流行したSARSやMERSと同じ認識。気がついたら収束しているだろうと、新型インフルエンザだって日本でも流行した(らしい)けど、(らしい)という感覚だった。当時の僕は高校1年生。ニュースに疎かったとはいえ、ほとんどの高校生はそんな受け止め方をしていたはずだ。
 それがどうだ。今やコロナウイルスと言われてピンとこない高校生なんかいないだろう。SNSの発達で、良くも悪くもかつてなく急速に広大に、情報が伝達されるようになったことも1つの理由だが、何よりウイルスは日常に侵食し、学校に行けないどころか家すら自由に出られないという最悪の形で、呼吸と同じくらい無意識に実行されていく毎日をすっかりぶち壊してしまった。
 東日本大震災もそうだった。僕は期末試験終わりの教室であの大地震に遭遇し、生まれて初めて学校に宿泊した。そのまま期末試験も中止。最初で最後の経験だった。だからこそ、鮮明な思い出として頭に焼き付いた。大多数の高校生にとってはそんなもんだ、災いは経験することで初めて頭に焼き付いてしまう。

 「立ち直ろう」と鼓舞するステージすらいつ訪れるか、そもそも訪れるかすらわからない現在において、懐かしいバトン文化が復活の兆しを見せている。とは言っても、すでに「バトン疲れ」なるワードも飛び出し、どうも一時的な流行で終わりそうだ。なぜネット空間で繋がろうとする動きが増えたか、これは単純で、個人の力では制御不可能な出来事によって物理的に断絶したから、距離を離されたからだろう。これまで複数発生していた天災では、中心には被災地があった。「pray for〜」という言葉を元に支援キャンペーンを展開する動きが度々発生していたが、この言葉は「被災地」と「被災地じゃない地域」との隔たりを暗示するニュアンスを孕んでいたように思う。まぁ当たり前だし、あえて隔たりをピックアップするのもひねくれているとも思う。
 ただ事実として、このコロナ禍においては「被災地」という概念はなくなってしまった。全員が被災者で、全世界が被災地だ。そこにおいては、「与える」アクションより「共有する」アクションの方が現実味があるのだろう。その状況にマッチした文化がバトン文化で、液晶画面の向こう側にいるスターたちは、向こう側の世界で繋がりあることで、私たちに「繋がり」の機運を与えてくれた。しかしこのバトンが疲れるというのは大きな誤算で、良かれと思って始めたバトンに「ムラ」というネガティブな要素が含まれていたこと、しかもこのバトンは誰もが生み出してしまえるという無邪気な暴力性を潜めていたことが改めて明るみに出た。かつてブロガーやmixiユーザーなら多くがモヤモヤしていたことだろうが、それが顕在化してしまったということだ。この先もバトンは発生するだろうけど、この瞬間こそバトン文化に終止符が打たれたように思う。

 同時に発生したミームが、星野源による「うちで踊ろう」だ。1分にも満たない曲だが、明らかに、ゼロ年代に失われたポップソングの再来だ。同時に、確実に20年代を代表するポップソングの1つだろう。先のバトンと比較して、このミームには自由がある。開かれた素材に自分なりの味をつける。強制や依頼は発生しない。開かれた文化だ。当初は思い思いに星野源とセッションする形で広まったが、今となってはコラ素材としての一面すら持ち始めた。こんなご時世にいうのもなんだが、まるでウイルスのようだ。あえてそう表したいのは、もちろん星野源が2018年に発表したアルバムタイトルが「POP VIRUS」だから。さすがにこんな展開こそ予想はしていなかっただろうが、恐ろしく示唆的なタイトルになってしまっただけでなく、その概念を体現するような作品を生み出してしまった。こうして文章に起こしてみると少し震えるような出来事だと感じてしまった。これが、非日常だから起こり得た流行で終わるのか、最悪の形で幕を開けた20年代のポップのあり方を示すコンパスになるか、それは受け手のリテラシーにかかっているのではないか。
 そう、次に重要なのはリテラシーだ。先月、安倍晋三首相が投稿した「セッション」は大炎上した。ポップソングの政治利用であるとしか受け取れない、小泉純一郎氏出演した自民党CMにX JAPANが流された頃から変わっていない。ファンであるぶん小泉氏の方が幾分かマシであるくらいだ。もう少し遡ればイギリス映画「傷だらけのアイドル」が指摘していたメッセージから変わってすらいない。それがポップの宿命だとは考えたくない。
 昨年の紅白歌合戦を眺めていた瞬間、その質はそれぞれだろうが多くの人が抱いたであろう高揚感、それはすっかりぶち壊されたがポップソングは形を変えた。皮肉かもしれないが、バトンは受け手に繋がれてしまった。