scrap book

日々の備忘録程度にのんびりやっていけたらなと思ってます。

雑記 7月6日

 何か書きたいことがあるわけではないけど、自由に文章を書くという機会も減ってきた。
大したことはかけないが考え方のアウトプット程度に記事を残してみる。

 ・最近
 社会人3年目、大学時代をもったいなく過ごしていたなぁと思うことは増えてきた。仕事にある程度慣れて落ち着いてきたからということもあるだろう。
 例えば読書。最近電子書籍を使い始めて、気軽に本を買うようになってきた。一方で、読書に向ける時間は案外少ない。通勤途中、帰宅後、読書に集中すればそれなりの時間は費やせるが、映画も見たいしラジオも聴きたい。ラジオを聴きながら読書はできるがなんだかんだで頭には入ってこない。ネットサーフィンくらいがラジオのお供にはちょうどいいかなという感じ。
 1966年の映画「他人の顔」を観た。安部公房が1964年に発表した同名の著作が原作。美術に建築家の磯崎新が携わっているからなのか、モダンチックな舞台がたまらなく良かった。フェデリコ・フェリーニ監督の「甘い生活」が好きで、それに近いセットだったんだよなぁ。ああいうのがきっと好きなんでしょう。で、実は「他人の顔」を観てようやく安部公房に関心を持つようになった。早速ブックオフで「砂の女」やら「箱」やら定番の作品を買い込んだわけだけど、なかなか読み始められない。というのも、めちゃくちゃ気楽に読めるけど分厚い「ブラスト公論」やコンパクトだけどじっくり考えながら読んでいきたい「ヒットの崩壊」、「十代に共感する奴はみんな嘘つき」「愛がなんだ」「編集者という病い」も残っている。読みたい本はキリがなく現れるけど、多くは大学にいた当時から販売されていたもの。なんで今まで読んでこなかったのか恨めしくなる。
 映画もそう。「アベンジャーズ/エンドゲーム」が公開されていたので、MCUは急いで追いかけた。一昔前に比べればまぁまぁの勢いで映画を観ているが、いくら追いかけても気になる映画は際限なく増えていく。ラジオを聞いていると、好きな文化人やらタレントやらは大体めちゃくちゃ映画を観ていて、番組中に「あ、これ観てないわ」と思う作品はめちゃくちゃ多い。とにかくキリがないが、よく考えれば好きな文化人だって40代以上の方々が多い。自分はようやくアラサーの境界線に一方踏み出そうとしてる程度なのだから、時間的な隔たりは果てしなく広い。その辺と比べてしまうとどれだけ走っても光が見えてこないトンネルに入るようで苦しくなってしまう。というわけで今気になる映画、本をがむしゃらにできるだけ吸収してその時々に心震わせてればいいやと気楽に構えることにした。とりあえず今は「ストレンジャー・シングス」シリーズを追いかけることから。

 ・vaporwave
 映画、本と比べれば音楽はまだ追えている方だと思う。とはいえ際限なく興味深い音楽は広がっていく。今気になっているのは、vaporwaveというコンテンツ。ざっくりといえば、ひと昔前のPC画面や情景、CMを駆使しながらサイケデリックな映像を作っていくような感じ。専門家でもないので説明が極端だというご指摘は甘んじて受け入れるから勘弁してくださいという感じである。とはいえちゃんと勉強しないとな。頑張ります。
 昔の映像が大好きで、ジャンルの存在を知る前から昔のCM全集みたいなやつをぼんやり観ていた人間なので、とにかくvaporwaveはど真ん中ストライクという感じで、その辺ふらついてる時に写真を撮ってはvaporwaveっぽく加工できないか試行錯誤したりもしている。なので色々言いたいことはあるが、とりあえず触れてみたいのは時代を象徴するような映像の雰囲気について。80年代、90年代、もちろんそれ以前も各時代の映像にはそれっぽい味が出ている。特にCMが顕著で、当時メインストリームを駆け抜けていたような映像、演出、音楽は時代が変わると急にその時々の雰囲気を帯び始めてサブカルチャー受けするようになっている。個人的に衝撃だったのは、藤井隆が2017年にアルバム「light showers」を発表した時に公開した映像で、収録曲をゼロ年代のCMっぽい映像に乗せて紹介するものだったのだが、まさに映像が「ゼロ年代的」だったのだ。小学生から高校生になる間過ごしたゼロ年代は自分にとって常に最新で、80年代や90年代に覚える懐かしさを帯びてくる日はいつかくるだろうとは思いつつ、その「いつか」は途方もなく先に見えてくるものだと思っていた。中学、高校に最新だと感じていたものにもノスタルジーを漂わせる雰囲気が漂い始めたということだ。
 気づけば2010年代も終わろうとしている。この10年間は特に最先端を感じることが多かった。この期間にもノスタルジーを感じる空気感が漂い始めるのだろうが、想像がつかない。そんなことを考えていたが、先日観た映画にその片鱗を見出した。いわゆるSNSの炎上だ。特定の事件や問題が浮上した時、SNSは関係者の個人情報洗い出しに躍起となる。明らかに許せない人物がいれば、ネット世論は総力を挙げてボコボコにする。そんな感じの「お祭り」で、もちろん今でも何かあるたび開催されている。ただ、今の時代からすればこの流れはもはや自然なこととして定着しているようにも思える。もちろん善し悪しは別の話。この「お祭り」をセンセーショナルに演出する表現、これは10年代独特の文脈なんじゃないかと思うのだ。要するに、もう20年代に突入しようかという今、センセーショナルに演出されてもなんだか寒くなってきている。もう少しすれば、時代性を帯び始めてノスタルジーを喚起させますよという前兆なんじゃないだろうか。この文脈が「ダサい」「寒い」から「味わい深い」に切り替わるまでにはもっと長い時間寝かせておく必要があるとは思う。十分な醸成が完了した頃には、こういうムーブメントはもうなくなっているといいなぁなんてことも思う。

とりあえずこんなところか。すぐ飽きる予感しかないけど、できるだけ短いスパンで続けていきたいな。